【中小企業のセキュリティ人材不足に"正解"はない】〜経営者が持つべき「専門家を使いこなす判断軸」〜
「専門人材を採用すべきか」「外部委託すべきか」「社員を育成すべきか」——セキュリティ人材不足という課題を前に、中小企業の経営者はこの三択を繰り返し迫られる。だが、この問い自体が間違った立て方である。経産省の2025年5月の取りまとめによれば、国内のセキュリティ人材は約11万人不足しており、中小企業が内部人材を確保できる環境にはない。この不足は短期で解消しない構造的な問題だ。それならば経営者が向き合うべきは「誰を採るか」ではなく、「自分が何を判断できるようになるか」である。専門家を使いこなすには、使う側に最低限の判断軸がなければならない。本稿では、その判断軸をどう整えるかを論じる。
セキュリティ人材不足は「採用」では解決しない

「採れない」ではなく「採っても機能しない」構造がある
中小企業がセキュリティ人材を採用できないのは、単に競争力の問題ではない。セキュリティに精通した人材は、中小企業という環境では孤立する。同じ専門領域を持つ同僚がいない、評価基準が整っていない、キャリアパスが見えない——この三点が揃った環境では、優秀な人材ほど定着しない。採用に成功しても、1〜2年で辞めるケースが繰り返される。
育成は「長期投資」ではなく「無期限投資」になりうる
「社員を育てればいい」という発想は一見合理的だが、現実は厳しい。セキュリティの知識は広く、かつ更新が速い。基礎を身につけさせるだけで数年、実務で使えるレベルになるまでにはさらに時間がかかる。その間に育てた社員が退職すれば、投資はゼロに戻る。育成は対策ではなく、賭けであるという認識が必要だ。
外部委託は「丸投げ」では機能しない
外部のセキュリティベンダーやMSS(マネージドセキュリティサービス)に委託すること自体は有効な選択肢だ。しかし、丸投げにした瞬間に経営者はセキュリティの判断を失う。「何をやってもらっているのか分からない」「本当に必要な対策かどうか判断できない」という状態になれば、毎年費用だけが増え、実態は空洞化する。外部委託が機能するのは、委託する側に「何を頼んでいるか」を理解する判断軸がある場合に限られる。
問いが間違っているから、答えも出ない

「誰に任せるか」より「何を判断できるか」が先決
セキュリティ人材不足の議論は、しばしば「担い手探し」に終始する。採用か、育成か、外注か——この三択は、経営者が「自分はセキュリティの判断から降りる」という前提に立っている。だが、経営者がセキュリティの判断から完全に降りることは、経営リスクの放棄と同義である。技術の細部まで理解する必要はない。しかし「何が問題で」「何を優先すべきで」「専門家の提案は妥当かどうか」を判断できる最低限の軸は、経営者自身が持たなければならない。
「正解を知っている人を探す」という依存構造
人材不足に直面した経営者の多くは、「詳しい人がいれば解決する」という思考に陥る。これは自然な反応だが、「正解を知っている人を探す」という依存構造そのものがリスクだ。詳しい人が言うことを全て正しいと受け取れば、過剰な投資を促されても気づけない。逆に、コスト削減を優先するベンダーに誘導されても判断できない。専門家を使いこなすとは、専門家の言葉を「鵜呑みにしない」ことでもある。
行動経済学的に見ると、この依存は自然な帰結である
カーネマンが論じたように、人は複雑で不確実な問題に直面すると、判断を簡略化しようとする。「詳しい人に任せれば安心」という思考は、認知負荷を下げるための合理的な反応だ。しかし、この「任せれば安心」という感覚は、実際の安全とは別物である。権威ある専門家に委ねることで不安が解消される——この心理がセキュリティの空洞化を生む構造は、過去記事でも論じてきた通りだ。

経営者が持つべき「判断軸」の中身
自社のリスク構造を言語化できること
判断軸の第一は、自社が「何を守るべきか」を言語化できることだ。顧客情報なのか、技術情報なのか、取引データなのか——守るべき資産が明確でなければ、専門家への依頼も「全部お願いします」という漠然としたものになる。漠然とした依頼には漠然とした提案が返ってくる。自社のリスク構造を経営者自身が言葉にできることが、専門家との対話の前提条件である。
「対策の優先順位」を問える最低限の知識
経営者に求められるのは技術の習得ではなく、「なぜこれが優先されるのか」を問える程度の知識だ。セキュリティ対策には無数の選択肢があり、全てを同時に実施することはできない。専門家が提示する優先順位に対して「なぜこの順番なのか」「自社の状況に照らして妥当か」を問える経営者と、「はい、分かりました」と受け取るだけの経営者では、専門家の使い方が根本的に異なる。
「やりっぱなし」を防ぐ確認の仕組みを持つ
外部に委託した対策が、実際に機能しているかどうかを確認する仕組みを持てているか。「委託した」「導入した」で終わるのが、中小企業のセキュリティが空洞化するもっとも典型的なパターンだ。定期的な報告を受け、内容を理解し、変化があれば問い直す——このサイクルを回すには、経営者側に基本的な判断軸がなければならない。ツールの導入は対策の終わりではなく、始まりである。
「使いこなせる専門家の選び方」という視点

自社の言葉で話せる専門家を選ぶ
セキュリティの専門家には二種類いる。技術の言葉で語る専門家と、経営の言葉で語れる専門家だ。中小企業の経営者に必要なのは後者だ。「脆弱性のエクスプロイト対策が必要です」と言われて判断できる経営者はいない。「取引先からのメールを装った攻撃が増えており、御社の受発注の流れを確認した上で対策を考えたい」と言える専門家とであれば、対話が成立する。選定の基準は資格や実績よりも、「この人は自社の経営状況を理解した上で話しているか」である。
定期的に「問い直す」関係を作れるか
専門家との関係は、単発の導入支援で終わってはならない。セキュリティのリスクは変化する。攻撃の手口も、自社の業務環境も、法規制も変わっていく。継続的に「自社の今のリスクは何か」を問い直せる関係を持てているかどうかが、専門家活用の質を決める。この「問い直し」のサイクルを回せるのは、経営者に判断軸があってこそだ。
「言われたことをやる」から「一緒に考える」への転換
外部専門家との理想的な関係は、指示を受けてその通りに動くことではない。自社の状況を共有し、優先順位を一緒に考え、対策の効果を一緒に確認する——この共同作業が成立してはじめて、外部リソースが本当の意味で機能する。専門家を「使う」のではなく「一緒に考えるブレーン」として位置づけることが、中小企業における外部委託の正しい形だ。
結論 — 経営者が取るべき次の一歩
セキュリティ人材不足に「採用・育成・外注」の三択で答えを出そうとする限り、問いは永遠に解決しない。不足は構造的であり、短期では解消しない。経営者が向き合うべきは「誰かに任せるか」ではなく、「自分がセキュリティを判断できる最低限の軸を持つこと」だ。専門家は持つべきだが、使いこなせるかどうかは使う側の問題である。
経営者は、自社のリスク構造を言語化し、専門家の提案に「なぜか」を問える判断軸を自ら整えるべきである。
第一歩は、「自社が守るべき情報は何か」を紙一枚に書き出すことだ——その作業が、専門家との本当の対話を始める起点になる。


