中小企業にとってのセキュリティ対策は、コストと人材の制約という現実に向き合いながらも取り組まざるを得ない経営課題である。従来は「教育強化」や「体制の整備」が最優先とされてきたが、実際の現場ではそれが逆効果となる事例も存在する。「ルールは作ったのに守られない」「教育しても行動が変わらない」…こうした悩みは、セキュリティを“人間が使いこなせる仕組み”として設計できていないことに起因する。本稿では、形式だけの対策に頼るのではなく、「人間の行動特性を前提にしたセキュリティ戦略」の重要性とその実践方法を、中小企業の実情に即して掘り下げていく。
教育・体制強化こそ重要?その“常識”を疑え
セキュリティ対策の文脈でよく聞くのが「まずは教育」「ルールを整備して運用を徹底」だ。だがその裏には、見落とされがちな副作用がある。
ツールよりも“教育・体制づくり”が重視されてきた背景
従来のセキュリティ対策は、「まずは人の意識を変えることが重要」とされてきた。中小企業向けのセミナーやベンダー提案資料では「教育が最大の武器」と謳われ、「全社研修」や「セキュリティ委員会の設置」が推奨されている。しかし、【IT顧問のススメ】でも語っているのだが、体制整備やルール作りが目的化すると、それが実行に結びつかず「やったつもり」で終わるケースが多い。
厳しいセキュリティ教育は現場でどう受け止められているか
「USB持ち込み禁止」「複雑なパスワード必須」「業務外クラウド利用はNG」など、意識の高い企業ほどルールが増えていく。だが、現場の社員は必ずしも前向きに受け止めているわけではない。むしろ「手間ばかり増えた」「何の意味があるのかわからない」と、ルールの形骸化が進んでいくのが実態だ。

「強化すれば安心」という思い込み
ルールを増やすことで「これで安心」と思い込みがちだが、それは経営者側の自己満足であることが多い。ルールや教育はあくまで“手段”であり、“目的”であるべきは「安全な行動が継続されること」だ。形だけの運用が放置されれば、むしろリスクが増す。
なぜ教育や体制の強化が逆効果になるのか
「やっているのに成果が出ない」には理由がある。それは人間の行動特性を無視しているからだ。
守れないルールは「形骸化」する
例えば「英数字記号を組み合わせた12文字以上のパスワードを毎月変更せよ」というルール。理屈では正しくても、現実には「メモして貼る」「Excelで管理」など、別のリスクを生む行動が始まる。また、業務中にPC再起動ができないためアップデートが後回しになり、結果として未更新のまま放置されるケースも多い。


要は、理屈では解っている…理論上もその通り…だが、複雑なパスワードを覚えるのは所詮…無理ゲーだ。様々なサービスで複数のアカウントがあり、さらに強固なパスワード…無秩序にならんだ英数記号を記憶し使い分けることは不可能だろう…だが、現実の論調ではそうするべきだと推奨している。できないことをルール化してやっているつもりになっている…その典型といえよう。
社員は「抜け道」を探すようになる
USB持ち込み禁止にすれば、代わりに個人のGoogleドライブを使う。報告義務を強化すれば、「報告したことにしておく」ための形だけの書類が増える。こうして“ルール違反”が“日常業務”になってしまう。これはルールのせいではなく、ルールの設計が「現実離れしていた」ことが原因だ。
“叱られるから隠す”文化がリスクを増幅させる
インシデントを報告すれば怒られる、責任を問われる、評価が下がる…という意識が根付いていると、ミスやトラブルは“なかったこと”にされてしまう。これが最大のリスクである。報告されない問題は、修正も対策もされず、次の被害を招く。
逆効果が発生する典型シーン
現場では「ルールを作ったのに守られない」「教育したのに変わらない」という声が多い。なぜか?
「ルールを守れ」と言うほど守られなくなる
“ルール”は「守るためにある」ではなく「破られることで効果を問われる」ものでもある。厳しすぎるルールは、現場からの反発や回避行動を招く。中小企業でありがちなのが、ベンダー提案に沿ってルールを一括導入したが、社員の業務スタイルと全く合っておらず、現場ではほとんど運用されていないという状況だ。
「教育したはず」が記憶にも残っていない
全社員対象のセキュリティ研修を年に1回実施しているから大丈夫…と思っていないだろうか。だが、座学で受けた知識は数日で忘れられ、業務に反映されることはほとんどない。特にIT初心者が多い中小企業では、“受講した=理解した”とは限らない。
「体制を作ったのに」現場では回っていない
セキュリティ委員会を設置した、マニュアルを整備した…という実績がある企業でも、現場からは「そんなもの知らない」「見たこともない」という声が出る。形式だけ整えた“やったつもり”の体制は、むしろ責任の所在を曖昧にし、いざという時に機能しない。
人間前提のセキュリティ戦略とは何か
「人はルールを破る生き物である」
この前提に立ったとき、セキュリティの戦略は大きく変わる。正しさを押しつけるのではなく、「人が無理なく守れる仕組み」にする。それが、今こそ中小企業に必要な“人間前提のセキュリティ戦略”であろう。
「できないこと」を「できる仕組み」に変える
なぜルールを守れないのか?
それは、“守らない”のではなく、“守れない”からだ。たとえば、以下のような現場の声に心当たりはないだろうか?
- 「パスワードは複雑すぎて毎回忘れる」
- 「アップデートしたいけど、業務中に再起動なんてできない」
- 「ツールの使い方が難しくて、逆にストレスになる」
人が手間だと感じるものは、必ず後回しにされる。そして、後回しにされたものは、やがて放置される。これが「セキュリティ形骸化」の最短ルートだ。
だからこそ、「仕組みで守る」発想が重要になる。
なぜここまで“楽”を優先するのか?
人は、楽な方を選ぶからである。
だったら、その“楽な選択”が「安全な行動」になるように設計してしまえばいい。
セキュリティとは、“正しさの教育”ではなく、“正しい方向に楽に流れる構造”のことだ。
失敗や報告遅れを責めない文化づくり
どんなに体制を整えても、インシデントが起きることは防げない。
重要なのは、「起きたときに、すぐに報告されるかどうか」である。
しかし、ここで多くの企業が見落としている前提がある。
それは…
人は“怒られそうなこと”を隠す生き物であるということだ。
つまり、ミスや違反をしてしまった社員が「これ報告したら怒られるかな…」「評価が下がるかも」と思った瞬間に、“なかったことにする”という選択肢が発動する。
これはその人が悪いのではない。
そう“感じさせてしまう空気”を放置している文化が問題なのだ。
したがって、報告のハードルを極限まで下げることが必要だ。
これが、いわゆる 心理的安全性 をつくる第一歩だ。
「報告しても自分は守られる」という感覚が広がったとき、現場の小さな異変が可視化されるようになる。
情報セキュリティとは、ソフトウェアの問題ではなく「情報が上がる空気」の問題でもある。
社員を縛るのではなく「行動を導く」設計を
ルールは必要だ。しかしそれが“禁止の羅列”になった瞬間から、人の頭には入ってこなくなる。なぜか?
「ダメ」と言われても、「じゃあどうすればいいの?」が書いてなければ行動できないからだ。
たとえば…
- 「個人のUSBは使ってはいけません」ではなく
→「ファイルの受け渡しは、共有ドライブを使ってください」 - 「フリーWi-Fiは危険なので使わないで」ではなく
→「外出先ではテザリングを優先してください」
つまり、ルールとは“抑止”ではなく、“ガイド”であるべきだ。
さらに言えば、そのポリシーは現場の声を反映して作られていなければ意味がない。
よくあるのが、総務や情シスだけでルールを決めて「はい、これが新ポリシーです」と一方的に配るやり方だ。
しかし、現場で使われていないマニュアルや読まれていないガイドラインは、「ないのと同じ」である。
現場を巻き込み、意見を吸い上げ、現実に即したポリシーを共創すること。
それが、実際に“使われるルール”を作る唯一の方法である。
■ 結論:人が自然に守る設計こそが、最強のセキュリティ
- 正しさを押しつけても、人は動かない
- ミスを責めると、情報は隠される
- 抑止ばかりでは、行動は止まる
だからこそ、「人間はこう動く」という前提で設計されたセキュリティ戦略が必要なのだ。
それは、複雑なシステムではなく、やさしい設計。
それは、叱責ではなく、共感。
それは、縛るのではなく、導く。
この“人間前提”の視点こそが、中小企業にとって本当に続けられるセキュリティの原点である。
経営者が取るべき行動指針
セキュリティ対策は、現場だけの責任ではなく、経営そのものに関わるテーマだ。中小企業の経営者こそ「人が動きやすい仕組み」を設計する視点が求められる。難しい理論よりも、まずは“小さく始めること”が一番の近道になる。
「ルールを増やす」ではなく「人が動きやすい環境」を整える
社員に「これをやるな」「それもダメ」と言い続けても、守られるとは限らない。むしろ現場は、やりにくくなることで“抜け道”を探し始める。だったら、自然に守れるように設計を変えればいい。
たとえば、USBの使用を制限したいなら、「社内共有フォルダを簡単に使えるように整備しておく」「使いやすさを改善しておく」だけで、わざわざ個人クラウドを使わずに済むようになる。
これは、“ルールで縛る”よりも、“動線を整える”という考え方だ。飲食店の回転率を上げるために、席の配置や動線を工夫するのと同じように、社員の動きやすさを設計することが、最も効果的なセキュリティ対策につながる。
まずは一度、「社員が面倒くさがっていることは何か?」を確認するだけでいい。改善の糸口はそこにある。
社員に“理解できる言葉”で伝える
セキュリティの話になると、「ファイアウォール」「UTM」「ゼロトラスト」と、横文字やカタカナが並びがちだ。だが、社員にとっては「それが自分の仕事とどう関係あるのか」が分からなければ、他人事になってしまう。
たとえば、こんな伝え方はどうだろうか?
- 「ウイルスに感染すると、パソコンが使えなくなって、納期が遅れる」
- 「お客様の名簿が漏れたら、SNSで広まって、営業電話すらできなくなる」
- 「もし取引先から“御社との取引は停止します”って言われたら…怖いよね」
“実際に起こりうること”を、自分たちの仕事に引き寄せて説明するだけで、社員の反応は全く変わる。
言葉を変えるだけで、行動が変わる。経営者は“翻訳者”のような役割を担って、現場に「意味のある説明」を届けることが求められている。
ツール導入は「人が楽に守れるか?」を基準に判断する
最新のセキュリティツールは確かに高機能だ。しかし、それを「使いこなす人」がいなければ意味がない。むしろ、「導入したことでややこしくなった」「誰も管理できないまま放置されている」という話も珍しくない。
ここで一つ、判断の基準にしてほしいのが:
「これ、現場の人が“何も考えずに”使えるか?」
である。たとえば、
- パスワードを何度も変えるのではなく、多要素認証(MFA)で手間なくログインできるようにする
- アップデートを各自に任せるのではなく、IT顧問や外注に一括管理してもらう
- 設定が複雑なツールは避けて、「ボタン一つで完結するもの」だけに絞る
導入の目的は、「守らせること」ではない。「守れるようにすること」だ。
運用できないツールを導入することは、“無駄な投資”に直結する。見栄えのいいIT投資ではなく、社員が自然に使い続けられる仕組みを導入することが、最終的に最大のリターンを生む。
まずは「明日からやれること」3つの提案
- ① 社員に「何が面倒ですか?」と聞いてみる
思わぬ課題が浮かび上がる。そこが改善ポイントだ。 - ② 社内用語やマニュアルを“わかりやすい言葉”に書き換えてみる
「情報漏洩防止ポリシー」より「顧客データを守る約束」の方が伝わる。 - ③ ツール導入の前に、現場で「誰がどう使うか?」を5分だけ想像してみる
「毎日忙しい人がこれをやれるか?」という視点で、判断は変わる。
「正しいことを徹底する」のではなく、
「続けられることを一緒に作っていく」…それが、中小企業にとっての現実的なセキュリティ戦略だ。
経営者が少し言い方を変えるだけで、社員の行動が変わる。
一歩踏み出すだけで、社内の空気が変わる。
その一歩を、ぜひ明日から踏み出してみてほしい。
まとめ ― 人と共にあるセキュリティ
セキュリティ対策は、単なるルール作りや教育ではなく「人がどう動くか」を起点に設計されるべきである。厳しいルールを作っても、それが守られなければ意味がない。大切なのは「人の行動を理解し、行動しやすくすること」。禁止ではなく誘導。叱責ではなく信頼。そして、ツール導入はあくまでも「楽に守るため」の補助輪である。
中小企業こそ、「人間前提のセキュリティ戦略」が最もフィットする。経営者の役割は、社員の行動を支える仕組みを整えることであり、現場の声に耳を傾け、共にセキュリティを育てていく姿勢が求められている。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
また、お会いしましょ。